20.12.8

カーライフ 

【日本の名車シリーズ8】 トヨタ スポーツ 800 (1965)

トヨタスポーツ800は、トヨタ初の市販スポーツカーです。
スポーツ800のプロトタイプは「パブリカスポーツ」と呼ばれ、1962年の東京オートショーでデビューしました。トヨタスポーツ800は「ヨタハチ」の愛称で親しまれており、「トヨタ8」の略である「ヨタハチ」と呼ばれています。



1965年(昭和40年)4月から市販されました。東京地区標準販売価格は59.5万円で、比較的廉価に設定されていて、ホンダS600の56.3万円と大差なく、当初から競合モデルとして考えられていたことが伺われます。


しかし、小型といえど2シーターのスポーツカーが大量に売れる程の情勢には至っておらず、日本国外への輸出もほとんど行われなかったため、1969年(昭和44年)10月の販売終了までの累計販売台数は3,131台に留まっています。

エンジニア長谷川達夫のインタビューによれば、もともと売るつもりで作った車ではなく、パブリカの開発が終わり、次のカローラが始まるまでの暇つぶしにやった実験的な作品に過ぎなかったといいます。


パブリカのコンポーネントを流用したのも、製品化予定のない車には会社の設備を割けなかったためでした。
しかしながら、前述したように1962年の東京モーターショーに出品したところ、思いがけぬ反響があったため、販売部門からの要望で製品化することになってしまいました。


輸出がなされなかったのも、当時の日本に合わせたパブリカのコンポーネントでは、アメリカの道路を高速で飛ばすような使い方に耐えられないと判断し、長谷川が強固に反対していたためです。


シャシーコードはUP15で、エンジンの排気量は700ccから800ccに増加し、デュアルキャブレターにより出力は28PSから45PS(21kWから33kW)に増加しました。


このエンジンは、街中では時速70km/hで、レースコースでは時速160km/hまでで十分なパワーを持っていました。ホンダS500と呼ばれるホンダの最初の車の登場後に生産が開始され、すでにダットサン・フェアレディに代表される市場セグメントに加わりました。


デザイナーの佐藤正三とトヨタのエンジニア長谷川達夫による空力的なスタイリングが施されており、長谷川は第二次世界大戦中に航空機の設計者として活躍していたため、スポーツ800は軽量で俊敏なマシンとなったのです。



スポーツ800は、ポルシェ・タルガよりも先にリフトアウト式のルーフパネル(タルガ・トップ)を採用した最初の市販車の1つでした。アルミ製のタルガトップは、使用しないときはトランクに収納することができました。


前述したように、1965年から1969年までの間に、トヨタの下請け会社である関東自動車工業で約3,131台が生産されました。そのうちの約10%しか現存していないと言われていますが、そのほとんどは日本国内で生産されたものです。


3,131台の大半は右ハンドル車であったが、300台は左ハンドル車で、主に沖縄市場向けに生産されたものです。左ハンドル車はごく限られた台数でしたが、トヨタは米国でリサーチを行いましたが、米国の販売店はスポーツ800は米国では売れないと判断したので、米国市場での輸入・販売を行わないことを決定しました。



モデルイヤーによって微妙なデザインの違いがあります。1967年のノンシンクロからシンクロファーストギアへの変更、1968年のグリルとバンパーレットの変更、1969年のサイドマーカーランプの採用などである。ただし、基本的なボディデザインは変更されていません。


空冷790cc水平対向2気筒ボクサーエンジンを搭載。1965年から1969年までは0.8リッターの2U(5,400rpmで45PS)が生産され、1966年から1976年までは同様の2U-Bが生産されました。


2Uは、チューニングされていない形で、パブリカ(UP20/UP26)やミニエース(UP100)にも使用されました。ボディパネルの一部にアルミを使用し、ユニボディ構造に薄いスチールを使用することで重量を抑えた。
生産の最初の数年間は、シートフレームでさえアルミニウム製という贅沢な仕様でした。